『考える力』と『協調性』


衝撃の二者面談

娘が小学校低学年のとき、二者面談で担任の先生に「お宅のお子さんは考える力がありません」と言われました。
ウチの娘は「ミカンが2つ、リンゴが3つありました。」という算数の文章題の問題を読んでいても「私はミカンが好きだから、ミカンが5つの方がいいなぁ♥」と、豊かな想像力で話が脱線して家庭学習がすんなりと進まないぐらいだったので『考える力がない』とはどういうことだろうと不思議に思いました。
また、他人の子供を『考える力のない子』と親に向かって言い放つ人も珍しいなと思いつつ、学校の先生にそんな風に言われるなんて、ウチの娘は学校で一体何をやらかしてしまったのだろうと不安に思いながら「例えばどういうことでしょうか?」と訊ねると、担任の先生は「えっ、例えばですか?!」と、私に質問されたのが全くの予想外という様子で、その場で答えを考え始めました。

先生の意見

一人の人間を『考える力のない子』否定的に断言しておきながら、その理由を説明する用意もしていないなんて一体どういう人なんだろうと私はその先生に驚きました。
ようやく説明が始まり内容を聞くと、社会の授業でいろんなマークが書いてある表を見て、それぞれにどんな意味があるのか考えようと先生が指示を出した際に、他の子供たちはすぐに教科書を開いて正解を探しているのに、ウチの娘は教科書を開かずに自分の想像で答えを考えていて、結局どの答えも当たっていなかったとのことでした。
私はその説明を聞き「考えるようにと指示を出されて自分の想像力を発揮して考えた娘の何がダメなんでしょうか?」と訊ねると、先生は「だって、他の子はちゃんと教科書を開いて正解を見つけているのに、お子さんは正解できなかったんですよ!」と、「えっ?何でわからないんですか?」ぐらいの勢いで私に言ってきました。


私の意見

私は考えましょうという指示を出されたのに、多くの子供たちは自分で考えることをせずにすぐに答えが書いてある教科書を開いて正解を探したんですよね。考えましょうという指示通りに自分の想像力一生懸命に考えた娘の何がいけないんでしょうか?正解を探して答えなさいという指示なのであれば、教科書から正解を探すのが妥当でしょうから先生のおっしゃることもわかりますが、先生は考えましょうと指示を出したんですよね。私がその場で授業を受けていたとしても、私は娘と同じように解釈し同じ行動をとりますし、指示に対する行動としてそれが間違っているとは思いません。今回の事例から考えると、娘にあるのが『考える力』で、他の子供たちにあるのは『教科書から正解を探す力』ということなのではないでしょうか?」とゆっくりと先生に話しました。

様々な指導者

私が話し終わると、先生はしばらく考えてから「なるほど、確かに・・・」という表情で「そうですね、すみません。」と謝ってきました。
私は先生からの謝罪が欲しかった訳ではないので「別に謝って頂く必要はないですよ。」と言いました。
そして「ただ、子供たちが日々そういった指導を受けることで『考えること=教科書から正解を探すこと』と間違った理解をしたまま成長して、将来、答えが書いてあるマニュアルがないと何もできない人間になってしまうのは怖いことだなぁと思いました。」率直な感想を述べて帰ってきました。
『先生』も人間ですから、経験値理解力考え方はそれぞれみんな違い、対応指導の仕方も人によって異なります。
子供を育てていると幼稚園や学校など、子供が通う教育機関を通して様々な個性を持った『指導者』に出逢うので、こちらもいろんな意味で勉強になります。


考える力

指導者本人が『考えること=教科書から正解を探すこと』と解釈しているならば、そのように指導される子供たちだけではなく面談する保護者も「先生がそう言っているんだから正しいのだろう」と安易に信じてしまう危険性があると知ったことも、私にとっては新たな学びでした。
保護者が指導者と接していく際に大切なのは、相手の肩書に惑わされることなく、話の要点と観点を見極めた上で正論なのかどうかを判断することだと思いました。
私は、先生に「考えましょう」という指示を出されて周りの子供が教科書を開いて答えを探し出す中、他人の行動に流されずきちんと自分で考えて答えを出した娘感心し、娘の理解力芯の強さ誇りに思いました。
子供たちが自分の力で考えて出す答えは個々の想像力や発想の賜物であり、どのアイデア素晴らしいのです。

『協調性』の解釈

その一件に関連して、私は『協調性』の解釈について考えました。
『協調性』とは「他の人と物事をうまくやってゆける傾向や性質」という意味で、人間が社会生活をする中で譲り合ったり歩み寄ったりして生きていく為の基本マナーといえる大事なものです。
ですが『協調性がある=良いこと』と常に言いきれる訳でもなく、場合によっては、強すぎる『協調性』から生まれる歪んだ連帯感悪い行動や習慣に発展することもあります。
多くの人が勘違いしがちですが『協調性』とは何でも周囲に合わせることではないので、先生に「考えましょう」と指示をされて、周りの子供たちが自分で考えずに教科書から答えを探しているからといって、それに合わせて自分も教科書を開く必要などありませんし、ちゃんと指示の意味を理解して自分の頭で考えている子供少数だったからといって『協調性がない』と解釈するのは大きな間違いです。

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変わらぬ善と悪

人に対して酷いことをしたり、陰で足を引っ張るようなことを仕組んだり、逆にわざと何もせずに傍観して集団で人を笑い者にするような行いや、ルール違反なのに「みんながしているからしてもいいはず。」とか「自分もしないと仲間外れにされるから。」と、悪いことだとわかっているのに便乗するのを『協調性』とはいいません。
むしろそれは『共犯』という言葉の方がふさわしい卑劣な行為です。
また「自分の周りにはズルいことをしてる人間がいっぱいいるから、自分も同じ様にズルいことをして何が悪い!」というのは無茶苦茶な理屈ですし、物事の善悪の判断は多数決で決まるものではないので、悪いことをしている人の数が増えても、声高らかに「ズルいことをしてもいいんだ!それが当たり前なんだ!」と開き直っても、悪いことが良いことに変わることはないのです。

時間と算段

コミュニケーションをとることこそが『協調性』とばかりに、多すぎる打ち合わせや、断続的に続くお喋りに勤しむ人はどこの職場にもいると思います。
実際、業務に欠かせない重要な連絡事項や打ち合わせはありますが、限られた勤務時間の中で締切りまでに仕事を終わらせることが必要な場合は時間のやり繰りが勝負になるので、私は職場での伝達事項打ち合わせ要約して手短かつ的確に伝えるようにし、基本的にお喋りには参加せず、その日に予定していた仕事を黙々とこなして定時に帰ります。
それぞれの仕事量責任の重さの違いは雇用契約による待遇の違い管理者の采配によるものなので私個人の意思で選択できるものではありませんが、日頃から仕事の優先順位を常に意識して取引先やお客様に迷惑を掛けないよう算段を立てて仕事に取り組んでいるので、お客様から感謝の言葉をもらうこともあります。

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優先順位

以前、私は『お客様第一主義』鉄則のサービス業に長く従事していたので、お客様に対するお約束の期日がある場合はそれを厳守するのが絶対で、バックヤードの書類や備品の片付けなど、内部の人間にしか関係ないような仕事は徹底して後回しでした。
もしも忙しい時期にそんな仕事に手を着けようものなら「片付けが完璧じゃなくても仕事は進められるのよ!いくら書類や備品が片付いてたって、お客様へ対応が遅れたんじゃ話にならないでしょ!」と怒られるのが当たり前で、私もその方針に賛成でした。
仕事の優先順位お客様への対応やサービス提供を第一に考えて決められるのが当然で、更にはそのサービス内容によっても優先順位があるぐらいなのですから、指示を出す権限を持った人間のこだわり思いつきなどで安易に決めるべきものではないと今も変わらず思いながら、私は日々仕事を進めています。

事実と結果

コミュニケーションに時間を費やせば仕事は遅れて残業が増えますが、近しい存在でいることでいつでも味方になってもらえるというメリットもあります。
ですが、たとえその集団の中で仕事のミスや遅れが大目に見られ許されたとしても、実際に取引先やお客様に自分が迷惑を掛けたという事実結果として残るので『協調性』という名の渡世術だけでは世間に通用せず本物の良い評価を得ることはできません。
また、自分のスキルを磨くのではなく、他人の足を引っ張り陥れることで自分を良く見せようとする人は、結局は運に見放されて自分の評判が落ちるものなので、やはり仕事は誠意をもって実力着実にこなしていくべきだと私は思っています。
仕事における本来の『協調性』とは「環境や立場が違う者同士が助け合ったり譲り合ったりしながら同じ目標に向かって任務を遂行する素質」という意味なのです。


娘への願い

『協調性』は社会で生きていく上で確かに必要なものですが、100人中99人が間違った判断をしたり空気を読んでそれに便乗したりすることで1人の正しい意見が潰されるような『協調性』ならば、そんなものは無い方が良いと思います。
私は、自分の娘には『協調性』の意味を取り違えることなく、何事もしっかりと自分で考えて判断できる人間になって欲しいと願っています。
そんな娘もこの3月に小学校を卒業します。
育児はまだまだ続きますが、とりあえず手の掛かる幼少期が無事に終わるんだなぁと考えると、母親としてはホッと一息です。