最後の思い出
先月 父が他界し、四十九日が経ちました。
今年の4月中旬に母から電話で父が病気だと知らされ、ゴールデンウィークに娘を連れて実家に行きました。
私たちは新型コロナウィルスが流行してからどこにも出掛けておらず4年振りの帰省だったので、父はとても喜んでいました。
入退院を繰り返し、すっかりやつれてしまった父はだいぶ弱々しい状態でしたが、私たちの前では「まだまだ死なないから大丈夫。孫の成人式や大学入学のお祝いをするまでは頑張って長生きしないと!」と力を振り絞って元気アピールをしていました。
急なお別れ
私は父の病名を聞いたときから、恐らく余命は長くないだろうと覚悟していました。
福祉系の資格を取得する為に『高齢者の身体機能と症状』について勉強した際、その病気は初期症状がわかりにくく気づいたときには末期状態になっていることが多いと学んでいたからです。
母から聞く限りは父の容体は安定しているとのことだったので、次は秋に帰省しようと考えていたのですが、猛暑のせいもあってか急激に衰弱が進み、救急搬送されて入院した翌日に息を引き取ったとのことでした。
それぞれの想い
余命が長くないと覚悟はしていたものの、さすがにそんなに早く亡くなるとは思っていなかったので、お盆の時期に帰省すれば良かったと自分の読みの甘さを悔いました。
父が病気だと知らされ取り急ぎ会いに行って顔を見せられたこと、昔の懐かしい話をしながら一緒に笑って過ごせたことが私にとってはせめてもの救いです。
父はいつもより口数が多く、今まで話したことがないような自分の若い頃の話もしていました。
もしかしたら、しっかりした意識で元気に話せるのはこれが最後だろうと感じていたのかもしれません。
充実した人生
父は多趣味で社交的な人間だったので、葬儀には多くの方々が弔問にいらしてくださいました。
人を集めて登山同好会、写真同好会、カラオケ同好会を結成し自ら会長を務め、俳句教室と茶道教室にも通い、学生時代の同窓生とのお食事会を幹事として毎月開催していました。
病気が発覚してからは会長や幹事の役を退きましたが、カラオケとお食事会には入退院を繰り返しているときも気分転換の為に参加していたので、最期まで忙しく充実した生活を送れていたのではないかと思います。
アクティブな父
写真同好会とは別に個人では、地元の銀行や公共施設に地域の自然を撮影した風景写真をパネルにして寄付したり、美術館のギャラリーで個展を開いたりもしていました。
登山同好会は初心者でも楽しめる内容で進めていましたが、昔からの登山仲間とは富士山に登ったり雪山にスキーを担いで登って山スキーをしたりしていました。
登山好きが高じてヒマラヤ山脈のエベレストでトレッキングをする為に複数回ネパールに行っていました。
※ 登山とは主に頂上を目指す山登りで、トレッキングとは途中までを目指す山登りを含めた幅広い意味なのだそうです。
特別扱い
興味のあることを実行する為に海外まで出掛ける辺りは、父と私のよく似たところです。
三姉妹の末っ子だからか、自分に性質が似ているからか、私は父にとって一番お気に入りの娘だったようで、子供の頃は「えこひいきが過ぎる!」と2人の姉から苦情が出るくらい特別扱いされていました。
だいたいのお願い事は聞き入れてもらえ、父が思い付きで東京や横浜など遠方の親戚の家に遊びに行くときは一緒に連れて行ってもらっていました。
今から数十年前に東京ディズニーランドがオープンしたときも、父は私をすぐに連れて行ってくれました。
車のドア事件
私が自動車運転免許を取得したての頃、家の敷地内で父の車を運転してぶつけてしまい後部ドアを大胆にへこませたときも、父はとても悲しそうな顔をしていたけれど私を怒りはしませんでした。
バレンタインが近かったので私がお詫びの気持ちを込めて父にチョコレートとウイスキーをプレゼントすると、それだけで車のドアを壊した罪は帳消しになりました。
(その出来事をきっかけに私は自分の運転センスの無さを思い知り、世の中の為にも車の運転はするまいと心に決め、ペーパードライバーのまま現在に至っております (--) )
突然の登山
一緒に行動することが多かった分、よく思い付きで行動をする父に私は振り回されたりもしました。
中学生の頃、突然「夏休みにキャンプに連れて行ってあげるからお友達を3人連れて来ていいよ」と言われ、私とお友達はウキウキしながらキャンプ泊を楽しみました。
次の日は観光して帰るのだろうと思っていたら、天気が良いからという理由で地元の標高約2200mの山に連れて行かれ、途中からのスタートではありましたが頂上まで登らされることになり「えぇーっ、聞いてないんだけど!」という感じでした。
いろんな意味での貴重な体験
山の頂上にはよじ登れるぐらいの高さの岩があり、その岩の上が本当の山頂ということで、私たちは岩の上に並んで座り記念写真を撮りました。
貴重な経験でとても良い思い出にはなりましたが、標高が高く夏でも雪が残っていて寒かったので夏の服装では明らかに不十分でした。
下山の際に雪の下り坂で少し滑ってしまった私は、父から「足元に注意しないと危ないだろ! 気を緩めるな!」と喝を入れられたのですが「そもそも、急な思い付きでこんな標高の山に登らせるのがおかしいんじゃ・・・」と思ったことを今でもはっきりと覚えています。
登山仲間と父
父の葬儀では弔問客の皆様をお迎えしてご挨拶をするのに忙しく、泣く暇もありませんでした。
葬儀後のお食事会では、登山仲間を代表して弔辞を読んでくださった方々が「きっと湿っぽいのは嫌がるから明るく見送りましょう!」と父との思い出話をしてくれ、笑顔がこぼれました。
私が初任給で父にプレゼントした『ロイヤルサルート』という青い陶器ボトルのウイスキーを父が登山に持っていき、自慢話を聞かされながら皆で一緒に飲んだという話を聞いて「いかにも父らしいなぁ」と思いました。
泣けるタイミング
葬儀後はすべきことが多くバタバタと立て込み、実家から戻っても手続き等に忙しく、会社では研修中にしばらく休んでしまったので遅れを取り戻すのに必死で気持ちがずっと張り詰めたままで、私は悲しいのに父が亡くなってからまともに泣くチャンスも余裕もない状態でした。
あまりにいろんなことがあり過ぎていよいよ精神的な限界を感じた私は、イルカちゃんに癒しを求めて水族館に出掛けることにしました。
早朝のバスに乗り、1人で車窓から海を眺めていたら急に涙が溢れてきて、私はそのまましばらく泣きました。
一人きりの『無の時間』だから素直に泣けるんだなと思いました。
父を偲んで
今日は娘が早くから出掛け、久しぶりにゆったりできる時間あったので、紅葉が始まった遠くの山を窓からぼんやり眺めていたら、不意に物凄く悲しくなり大泣きしました。
父との思い出を振り返ると、あんなに可愛がってもらったのに私はたいした親孝行もできてない気がして、何ならむしろ親不孝だったんじゃないかとさえ思えてきて、正解がわからなくて、今さらどうしようもなくて、ただ苦しいです。
『親孝行 したいときには 親は無し』と先人はよく言ったものです。
それだけ、今の私のように後悔の念に捉われる人が多いということでしょうか。
今日は父を偲んで献杯しようと思います。