「カースト」 随分と前から話題となっている「ママカースト」とは、育児と関わりのない人々にも知られている言葉なのだろうか。
「カースト」とは社会科で習ったインドの身分制度のことで、現在はインドの法律上で全面禁止となっているが、人権差別は今もまだ残っているそうだ。
「タワマンカースト」 今、ドラマの題材にもなっている「タワマンカースト」なるものも実際にあるようで、都心のタワーマンションに住む人々の中で上層階に住む人の方が格が上とされ、低層階に住む人は格が下とされるらしい。
私はそのドラマを見ていないが、内容はかなり壮絶なものなのだろうか。
余計なお世話 マンションの購入価格から考えられる経済力の比較なのだろうが、せっかく素敵な生活を楽しもうとそれぞれの想いや期待のもとお洒落なマンションを購入したのに、勝手にそんな格付けをされたのではガッカリだし迷惑な話だと思う。
「ママカースト」 それと同じ様なものが「ママカースト」で、御主人の社会的地位が高く経済的に潤っている家庭の母親は格が上とされ、普通の家庭の母親は格が下とされるのだそうだ。
残念な習慣 せっかく授かった子供を大事に育て、無垢な心に教育や躾をしていく中で、勝手に上だの下だの格付けされるなんてそれこそ迷惑な話だし、母親同士がそんな関係性を作るのは子供たちの社会生活環境に悪影響になるのではないかと思う。
だが母親の中には他人と比較して自分の方が上だと優越感に浸ったり、そういうことでしか自分の価値を確認できない人がいるのも残念ながら事実だ。
記憶 娘が幼稚園に入園すると同時に、当然私は「園ママ」デビューした訳だが、今思えば私はそのとき既に「ママカースト」の走りを少し経験していたような気がする。
都会に限らず地方都市でも、そういったことは起こりやすいものなのかもしれない。
舞台 娘が通っていた幼稚園は、行事の準備は全て幼稚園が行い親は見学に招待されるのみ、クラス内でのお土産類の配布は一切禁止というように、母親同士の摩擦が起きないようなシステムが徹底されていた。
「プチカースト体験」の舞台となったのは幼稚園バスの停留所だった。
特別エリア 娘は幼稚園バスで通園していた。
当時私が住んでいたエリア周辺は社会的地位が高いとされる職業の人々が多い居住地だった。
娘が利用するバス停から同じ幼稚園に子供を通わせる世帯は20世帯で、その内17世帯は御主人が医師という家庭だった。
自己紹介 子供たちをバスに乗せて見送った後、そのバス停を利用する母親20人で自己紹介をすることになった。
私は子供を持つ母親の自己紹介なのだから、子供の名前、年齢、クラスと「一人っ子で甘えん坊です」とか「ピアノを習ってます」とか、子供のことを紹介しあうものと思っていたのだが、「じゃあ、わたくしから言わせて頂くわ。」と最初に発言した母親が「○○です。主人は医師です。××マンションの1階に住んでいますの。猫の額ほどの庭しかございませんが、いつでも遊びにいらして下さいな。」と発言し、その後に続く母親も自分の住むマンション名と住んでいる階数を発表する形で続き、誰がどの子供の母親なのか一切わからないまま初顔合わせは終わった。
戸建ての強さ 御主人が医師でそのエリアに住んでいるというのがある種のステイタスになっているようだったが、御主人が医師で戸建てに住んでいるのは2世帯しかなく、御主人が普通の会社員で戸建てに住んでいるという若いギャル系の母親が他の母親たちに一目置かれて、場をザワつかせている様子が何だか面白かった。
競争心 医師の間にも開業医だったり勤務医だったり代々続く個人病院の跡取りだったりと格差はあり、その探り合いと競争は毎日の会話で行われていた。
裕福な家柄の人は他人と比べることになど興味を持たず、常に礼儀正しく凛としていて「金持ち喧嘩せず」ってこういうところにも出るものなんだなと思った。
詮索 物凄く知りたがりの母親がいて、そのバス停を利用している人の住居の近くまで行って実際に建物を見て回って評価をしていた。
あるとき不運にもその母親に捕まってしまい、お茶をしながら自家用車の種類や資産の有無、結婚指輪のブランドまでもあれこれと聞かれて当惑した。
恐怖 その母親から携帯に電話がかかってくるようになり、出られないでいると20回ぐらい着信記録が残されるという有様で、怖くなって全力で早急に距離を置いた。「医師の嫁」にもいろんな人がいるものだと思った。
境界線 私が住んでいたマンションは「特別エリア」と道路を1本挟んだ隣のエリアだったのだが、「特別エリア」のバス停の方が圧倒的に近かった為そちらを利用していた。
ある日、先頭を切ってあのしょうもない自己紹介を始めた母親に「お宅の住所は△△でもない上に御主人が医師でもないなんて、随分珍しいこと。そんな方今までいらっしゃらなかったわよ。」と高圧的に言われた。
集団心理 日々そのエリアの「医師の嫁」たちに囲まれて独特の探り合いや競い合いの雰囲気に飲み込まれていたからか、少数派の自分が何かおかしいのかと思ってしまうぐらい精神的に疲れていたようで、「はぁ、△△エリアじゃなくてすみません・・・」と自然に口から言葉が出ていた。
そして自宅に帰り、旦那さんに「ねぇ、どうして貴方は医者じゃないの?」と尋ねていた。
正常な思考 その唐突で意味不明な質問に対する「僕は医者ではないけど、会社を2つ経営してそれなりに頑張っているつもりだよ。それに△△エリアよりもこっちの方が地価は高いんだし。しっかり者の君がそんな風に流されるとはね。」という答えにハッと我に返った。
医師は確かに尊い仕事だけれど世の中で医師だけが頑張っている訳じゃないし、△△エリアに住んでいなくたって誰にも何も迷惑なんかかけてないんだと、当たり前のことを思い出して反省し、改めて集団心理というものの恐ろしさを感じた。
打開策 それ以来、バス停への娘の送迎は基本的に旦那さんに行ってもらうことにして、私はあの異様な空間からなるべく離れることにした。
そのバス停を利用する母親たちで定期的に開くお食事会も、毎回やんわりとお断りして関わらなかった。
ずっと新人 初めての育児は、子供が大きくなってもその年齢その年齢で分からないことだらけの手探り状態だ。
子供が10歳、15歳と成長したとしても、それぞれの年齢特有の課題を抱えることになるので、母親の悩みと不安は尽きない。
危険な心理 不安な気持ちで何が正解なのかわからず自信が持てないでいるとき、人は自分を見失って周りに流されやすくなる。
娘の社会生活デビューとなった幼稚園入園は、母親の私にとって正に迷いや不安の多い危うい時期だったと思う。
決して気弱でもなく、自分をしっかり持っている方なのに、自覚のないまま簡単に集団心理に押し潰された。
決心 私はその後また同じ様に惑わされないように、他所の母親とは付き合わない主義に徹して娘を育ててきた。
茶話会にもお食事会にも参加せずママ友も全く作らない状態だったが、情報は幼稚園や学校に直接連絡をして聞くので、特に困ったことはなかった。
距離とスタンス 最近は徐々に、娘が仲良くしているお友達のお母さんとは少しだけ関わらせてもらっている。
娘が自立し始め自分で必要として選んだ人間関係なので、子供たちの関係に寄り添う形をとっている。
「母親同士の関係ありき」よりも子供の成長に合わせたスタンスでお付き合いする関係の方が自然じゃないかと私は思っている。
確認 私の様な極端な方法をお勧めする訳ではないが、もし母親同士の人間関係に悩んでる人がいたら、集団心理に飲み込まれて判断力を失っていないか、一度その集団から距離をとって確認してみることも大事だと伝えたい。
御縁 人生における出逢いは何らかの御縁があってのことだが、時には捨てた方が自分の為になる御縁もあると私は思っている。
苦しみから学ぶこともあるが、学び終わってもなおずっと苦しめられ続ける必要はないと思うのだ。
だからそういった意味で全ての御縁に感謝はすれど、必ずそれをずっと大事にしなくてはいけないなんてことはないと思う。
学び きっと人間は大人になってからも時に痛い目にあったりしながら、「見極める術」を学んで成長していくのだろう。
あの「特別エリア」の母親たちの中にだって本当は競い合いなんかしたくないと思っていた人もいて、でもどうしたらいいのかわからなかったのかもしれないし、その後どうすべきかを学んだ人もいたかもしれない。
希望 私もまだまだ成長の途中だが、私のこんな昔話が少しでも、以前の私の様に精神的に疲れて集団心理に捉えられてしまっている人のお役に立てばと思う。