22歳の老猫ちゃん
道路の雪もだいぶ消え、穏やかなお天気の日々が続き、この地域にしてはめずらしく早い春の訪れを感じています。
温かい日差しの中、目を覚ました大地の香りがする心地良い空気に、何だか嬉しい気持ちになります。
3月3日のお雛祭りにはウチの老猫ちゃんがめでたく22歳になりました。
22年間という長い年月、私に幸せを与え続けてくれている愛しい老猫ちゃんと出逢えたことに深く感謝しつつ、大きな病気もせずに長生きしてくれていることを本当にありがたく思っています。
以前は老猫ちゃんにお誕生日や特別な日にはお刺身などをあげていましたが、年齢と共に胃腸も弱ってくるので、今は食べ物でお祝いするのではなく、これでもかというくらい時間をかけてひたすら撫でて甘やかし、ゴロゴロと喉を鳴らしてリラックスできる時間をより多く作るようにしています。
一緒にいられるありがたさ
3年前にもう1匹の愛しい老猫ちゃんが19歳で旅立ち、私はその死を受け止めたときに、頭での一般常識的な認識ではなく、大事に思う存在と一緒にいられることがいかにありがたいかを身をもって知りました。
それから私は、夜中に老猫ちゃんに起こされて『撫でろ指令』を出され、どんなに眠いときでも「今日も生きててくれてありがとね。幸せをくれてありがとね。」と言いながら撫でるようになりました。
以前は、お寺や神社にお参りに行くと私は必ず「家族が長生きできますように。」と、自分が家族とずっと一緒にいたいという思いを優先させて祈願していましたが、19歳で旅立った老猫ちゃんが加齢による腎臓や甲状腺の疾患でどんどん痩せて、毎日しんどそうに生きている姿を見てからは「家族がどこも痛くなく、毎日を笑顔で過ごせますように。」と、長生きよりも痛みのない日々を祈るようになりました。
『感謝の意識』と『幸福感』
やっぱり動物も人間も毎日どこも痛くなく過ごせるのが一番の幸せなんじゃないかと思います。
病気をすることもなく普通に暮らしていると、健康な日々を当たり前のことと人は思いますが、自分が病気をしたり、身近な人が病気で苦しんでいるのを目にすると健康のありがたみに気づくきっかけになります。
健康のありがたみに気付いて以来、私は「今日もどこも痛くなく美味しく食べれて幸せだったなぁ♥」と日々を振り返るようになり、家族がどこも痛がることなく生活してくれていることに感謝するようになりました。
今まで『普通』と思っていたことに感謝し『ありがとう』や『幸せだなぁ』という、意識をポジティブにする言葉を繰り返し発するようになったことで、生活は何も変わっていないのに自分の中で幸福感がどんどん増していくのがわかりました。
自分の幸せ
人間には多かれ少なかれ欲求がついて回るものですが、私は『健康こそが一番の宝』と思うようになってから、家族の平穏無事な暮らしと美味しく食べられる幸せ意外にはあまり欲を感じなくなったように思います。
抜群のスタイルでお洒落に洋服を着こなし、素敵な容姿を保つことにも女性として確かに魅力を感じますが、私の場合「でもやっぱり、食べたいものを好きな時に好きなだけ食べられる幸せの方がいいな。実際に私、太ってても幸せだし♥」となるので『生活習慣病』に関する数値を気にして、健全な食生活を考えるくらいで、スタイルや容姿に対する執着はほとんどありません。
自分の幸せが何なのか確信すると人間は、自信と余裕から自分の在り方を悟り、他人と比べて自分の存在価値を確認したり、あれこれとむやみに欲を持たなくなるのではないかと思います。
似て非なる『信念』と『欲』
自分の信念を通すことは我を通すことと一緒で欲深いことだと解釈されることもありますが、私は『信念』と『欲』は『似て非なるもの』だと思います。
なので『欲張らない=主張をしない』ということでも『欲がない=戦わない』ということでもなく『信念を主張する=欲を出す』ということでもないと思っています。
人間社会がどんどん発展を遂げ、現在の技術や文化に至れたのは『競争して勝とうとする欲』『達成しようとする欲』『知識を身につけ生かそうとする欲』などの様々な欲があり、それらの欲を満たす努力をしたからこそ生まれた結果だと思うので、欲を持つことが悪いことだとは思いません。
大事なのは『信念』と『欲』のどちらにおいても、間違った方向に進まないように気を付けること、間違ったのなら方向性を正す決断と行動をすることだと思います。
娘のお誕生日
今日は娘の12歳のお誕生日で、娘は買ってきたチョコタルトケーキにホイップクリームやイチゴ、カラフルな砂糖の飾り、お誕生祝い用のチョコプレートなどをデコレーションしてオリジナルケーキを作っていました。
そして、娘が生まれた時間に合わせてそのケーキを私と2人で一緒に食べました。
不器用な手つきで、それでもニコニコと楽しそうにケーキをデコレーションしている娘の姿が何気に笑えて、写真をとりながら「そういえば、12年前のこの時間に生まれてきたんだよなぁ・・・」と当時を振り返りました。
陣痛が始まってから産むまでに28時間も掛かっていた私は「安産なら平均7時間というところ、何でよりによって私は普通のお産の4回分も時間が掛かるんだ・・・理不尽過ぎる!」と、あまりに長く続く苦しみの中で走馬灯のようなものを何度か見ていました。
母親としての決意
何だかんだでようやく生まれた娘と対面し、ホッとした気持ちで「初めまして、私のところに生まれてきてくれてありがとう!」と声を掛け、娘の顔をよく見るとおでこに緑色の何かがついていました。
「この緑色のものは何ですか?」と訊くと、助産師さんは「あぁ、それは赤ちゃんのウンコですね。生まれてくる途中についたんでしょう。」と答えました。
「あのぉ・・・できればそのウンコは拭いていただけませんか?」とお願いをして助産師さんにおでこを拭いてもらっている娘を眺めながら、私は「おでこに緑色のウンコをつけて生まれてくるなんて、この子にはきっと強運がついているに違いない!」と確信すると同時に「おでこに緑色のウンコがついてるけど、私は絶対にこの子を命懸けで守ってしっかりと育てるわ!」と強く心に誓ったことを今でもハッキリと覚えています。
保護者のランチ会
そんな娘もこの4月からいよいよ中学生になります。
仕事がとにかく忙しい為、必然的に職場を優先する形で娘の学校行事にはほとんど出席していなかったのですが、卒業前という大事な時期の行事ということもあり、法律で定められた労働者の権利である『有給休暇』を申請して取得し、久しぶりに参加してきました。
学校行事の前に6年生の保護者のランチ会があり、ホテルのレストランに行きました。
4人ずつのテーブル席で、私は1人で参加したので、3人が座っているテーブルに混ぜてもらいました。
そのテーブルは、3人の子供を育てていて、1番上の子はもう大学生で2番目の子は高校生というベテランママが2人と、2人の子供を育てていて、上の子が現役の中学生で、この春から娘が通う中学校の先輩にあたるお姉さんのママというメンバーでした。
ベテランの先輩ママたち
私はこれから娘が初めて中学校に通うので、入学準備はもちろんのこと、環境の変化や勉強のこと、スマートフォンの与え方など、とにかくわからないことだらけでしたが、3人の先輩ママたちは既に経験している育児過程なので、話を聞いていてとても勉強になりました。
最近は小学生でもスマートフォンを持っている子供が多い中、そのママたちは「スマホは高校から!」という意見で、私も含め全員一致でした。
一番『目から鱗』だったのは塾の重要性で、私としては「高校受験が近くなったら、やっぱり塾に通った方がいいかな・・・」ぐらいの感覚だったのですが、この地域では高校受験が独特で、中学3年間の日々の小テストや定期テストの点数で内申点のランク付けが行われて、受験のときは当日のテストの点数だけではなく内申点のランクが大きく影響するので、受験前だけ頑張っても手遅れになるとのことでした。
納得なこと
帰宅後、娘に「スマートフォンは高校生までは持たせない家が多い」ということと「中学1年生から塾に通った方がいい」ということを話したところ、娘も自分が知っているお姉さんたちが実際にそうしていたならとすんなり納得し、スマートフォンを諦め、塾の説明会に出席することになりました。
塾の先生にも高校受験のシステムを聞き、本番一発勝負ではなく日々の頑張りも考慮されるのは良いのですが、その反面、各学校でテスト問題のレベルや評価の厳しさ、競争率などが違う為、ある学校ではAランクをもらっていても違う学校の基準だとBランクの評価になるなど、テスト問題と評価基準に統一性がなく不公平さが出てくる厄介なシステムだと思いました。
また、この地域で普段、当たり前のように人をランクで分けるような差別的発言をよく耳にするのは、こういった地域的背景があるからなのだと納得しました。
新たな展開
生活環境が変わるタイミングで、娘の勉強に対する意識が変わるのは良いことだと思うので、塾の春期講習をきっかけに学ぶ楽しさを知って自信をつけてくれたらいいなと思います。
塾の先生たちは、教え方の研修を受けた後に実践を重ねてきているだけあって、子供が飽きないような教え方とフォローが上手で、私もこんな先生に教わったら勉強が楽しいだろうなぁと思いました。
私は今回、子供の学習を通してまた新しい指導者を知り、学校の先生は学校生活の総合的監督指導のプロで、塾の先生は勉強に特化している分、勉強を教えて理解させるプロなのだと感じました。
3月は私も娘も予想以上に忙しい日程になりましたが、娘の今後の展開と、忙しい日々に自分がどんな風に合理的に力を発揮していけるのかが楽しみです。