新年のひらめき


充実の『仕事納め』

『仕事納め』も無事に終わり、年末年始のお休みに入りました。
百貨店で働いていた頃は、大晦日まで勤務をして元日だけがお休みなのですが、1月2日の初売りの為にかなりの早出をしての勤務になるので、早起きに備えて早く寝なくてはならないあっという間のお休みで『仕事納め』『お正月』という感覚はほとんどありませんでした。
今の職場では年末らしく大掃除をし、部の上司からはサプライズなプレゼント労いのお言葉を頂き、「仕事を頑張って良かったなぁ・・・」と心から思いながら『仕事納め』満喫しました。
夕方からは組織全体の立食パーティー抽選会があり、私の課は全員賞品が当たり、良い締め括りとなりました。

新スタイルのお年越し

お休みに入り、娘と家の掃除を終わらせ大晦日を迎えました。
いつも大晦日天ぷら年越しそばを食べ、夜はみかんを食べながら年末の特別番組を観るぐらいなのですが、私の住んでいる地域には大晦日にはもうお祝いの宴を始めるという文化があり、急遽、今回は我が家もそれに倣って大晦日の夕方からお正月の為に用意したご馳走を広げて、地元民気分お祝いを始めることにしました。
基本的に我が家の場合、家での食事を楽しむよりもお出掛け先宿泊先プロの職人さんが作った本格的な料理好きなだけ頂くという選択の方が多いので、今回も例年と同じ量のご馳走を準備していました。

予定と違ったお正月

一日早くお祝いをスタートしたことと、成長に伴い娘の食欲が旺盛になってきたことにより、用意していたお正月のご馳走元日の午前中にはほとんどなくなってしまって、家でゆっくりと寛ぐはずがいそいそと近くのスーパーに買い出しに行くハメになり、娘に「ママ、ご苦労様!いってらっしゃい!!」と私一人だけ寒い外へ送り出されました。
スーパーに着き「まぁ、せっかく元日に来たんだし・・・」と、おせち料理やお寿司、お刺身、ステーキ肉、お正月のスペシャルケーキなどをガンガン買い込み、大荷物で帰宅し再びお正月のお祝いを始めました。
明るいうちから飲むお酒は本当に最高でした。

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新年のひらめき

そんな元日に、より幸せな気持ちで生きる為にできることをふと考え、ひらめきました。
何かを新たに心掛けたり、行動するというのは精神的にも体力的にもパワーを使うので、そう簡単には実行できないものです。
ならば逆の発想で、今までしていたことをやめるなら比較的しやすいのではないかと考えました。
人間は、無意識のうちにネガティブな行動をし、指摘されるまで気がつかないことが結構ありがちで、恨まれるかもしれないリスクを負ってまでわざわざ指摘してくれる親切な人残念ながらそういないものです。
私は今回『より幸せに生きる為にやめた方がよいこと』を考えてみました。

『どうせ自分なんか・・・』

その言葉を使えば、周りにいる優しい人「そんなことないよ!」と言ってくれるものですが、もしそれを計算した上で『慰めの言葉待ち』として言っているなら、やめた方が良いと思います。
思惑通り慰めの言葉がもらえたとしても、小学生の子供でも考えつくようなそんな作戦を多くの人はお見通しなので、『幼稚でズルい人間』認識され、呆れられてしまいます。
また、計算ではなく本当に自分を嘆きながら『どうせ』卑下しているのなら、自分に対して『努力をしなくなる呪い』をかけてしまっているのと同じで、それはとても怖いことなので、やっぱりやめた方が良いと思います。
何気ない言葉ほど、実は気をつけた方がいいのかもしれません。

『情報を鵜呑みにする』という危険

世の中には様々な『情報』が溢れています。
社会的なニュースからプライベートな人間関係噂話まで、全てが『情報』であり、その膨大な情報正しいか否かを判断する力がないと、時に悪意のある情報の発信者踊らされて利用されることにもなります。
ではその正しい判断基準とは何でしょうか。
自分好みのタレントが発信すれば、その情報は真実なのでしょうか?
自分と親しい人間が言うことは全て事実なのでしょうか?
自分と話す機会が多い人が言っていることなら、それは正しいことなのでしょうか?
たくさんの人と繋がっている人の言葉は大多数の考えで、それが世の中の常識だといえるのでしょうか?

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コミュニケーション能力

人間なので『信じてあげたい』『助けてあげたい』という気持ちが働いて、親しい人ひいき目に見てしまうことはよくあると思いますが、情報が事実かどうかの判断をする際にその感情を連動させることは危険なことだと思います。
生きる上で必要とされるコミュニケーション能力にもいろいろあり『明るく礼儀正しくて感じがいい』という無害で模範的なものだけではなく、常に情報の中心に身を置くことで、いかにもいろんな人のことをよく知っているという態度で情報通を気取り、他人のことをまことしやかに言いふらす『厄介なずる賢さ』というコミュニケーション能力も存在します。

『あざとさ』という墓穴

以前、私が人を評価する立場にいた頃、自分の評価を上げる為に私に擦り寄り、自分のライバルの悪口を吹き込んで蹴落とそうとする人がいました。
その人は、いかに自分が大変ライバルは楽をしているかという趣旨のことを『ねっ、私って可哀相でしょ?!』という目で、何とか取り入ろうと巧みに訴えてきましたが、私が自分の目で見た事実からは、わざわざアピールはしてこなくても仕事をしっかりこなす人はきちんとこなしているし、仕事に支障をきたしている様子もなかったので、その情報は無視しました。
むしろ厭らしく裏で手を回してアピールしてくるあざとさが、評価のマイナス要因となり、その人は墓穴を掘った形になりました。

見極めの重要性

情報の信憑性のジャッジは、自分の目で見極めることが大事だと思います。
それが人の評価中傷に繋がるような情報なら、責任があることですから尚更です。
情報の信憑性を考えもせずに、人の言うことをいちいち真に受けて反応していると「物事を見極める力のない人間」という残念な評価を自分がされてしまいます。
私は自分の目で見た事実に基づき評価をしたことで、アピールをしてきた人には逆恨みされて陰口をたたかれましたが、評価をする立場の人間としての信頼を手に入れました。
情報を鵜呑みにするのをやめて、核心自分の目で見極めれば、何事においてもプラスに繋がる選択ができるものだと思いました。

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『相手にしない』という強さ

私が以前いた職場は嫉妬が多い『大奥』のようなところで、油断すると誰でもすぐにやり玉に挙げられるので、皆それぞれの方法で自分の身を守っていたように思います。
『やり返す』という選択肢もある中、同様の行為をすれば自分の人間性確実に下がり、顔に性根の悪さが出て醜くなってしまうので、私は自分の気の強さ『仕返し』には向けず「低俗な中傷で私の心の芯は砕かれたりしない!他人が知らなくても、私は自分が薄っぺらな弱い人間ではないことを自分でよく知っている。」ときっぱり言いきって『相手にしない』というやり方を通してきました。
時に、相手にするのをやめるということも身を守り幸せに生きる術として必要だと思います。

悪口と噂話にメリットなし

人が自分の悪口を言うスキを与えないように、次から次へと他人の悪口を言い続けて自分を守る人や、悪口好きなグループの一員となり、他人が持つ嫌悪の感情に便乗することで自分が狙われないようにする人もたくさんいましたが、そういう人たちは、その場にいない仲間の悪口でも平気で盛り上がるので、結局、悪口で繋がることにメリットなど何もないように見えました。
『いろんな人が標的にされてるけど、自分だけはきっと大丈夫』という考えを持つのは、おめでたすぎかな・・・と思います。
噂話また然りで、幸せや人との良縁意地の悪い表情の人のもとには寄ってきません。
人と誰かの悪口や噂話で繋がることをやめれば、自然と顔に滲んでしまっている醜さが消え、本来の穏やかな優しい表情になり、運も開ける気がします。

自分の価値

人生の時間限られているので、せっかくの『自分の時間』怒ったり妬んだり蔑んだりすることに費やすのをやめれば、穏やかでより幸せな気持ちで生きられるのかなと思います。
また、自分の価値を低く認識することをやめれば、新たに見えてくるものがあるんじゃないかとも思います。
私はブログを見てくれる皆様感謝していますし、見てもらえることで『やり甲斐』というパワーをもらっており、皆様必要としています。
きっと他にもそう感じながらブログを続けている人がいるのではないかと思います。
他人にそんな『幸せな気持ち』をあげている皆様は、皆様自身で考えるよりももっと価値のある人だと私は思います。

今年も皆様にとって素敵な一年になりますように・・・(^-^)

よろしければ、娘氏のブログもどうぞご覧ください★
n-a-creation.hatenablog.com